
精神世界やエネルギーワークに脚を突っ込んでいると、この二つの言葉に良く出会います。
レイキを始める人の中にも、悟りたい、覚醒したいと言う動機で始める人は少なくありません。
では、その悟りや覚醒って何でしょう?
よく「悟りの境地」などと言うことがありますが、悟りとは「理解し受け入れた状態」、と言うことになるでしょうか。
それは何に対してかと言えば、「自分が直面していることに対して」、と言うことになると思います。
仏教では、お釈迦様が、「生きるとは何か?人生の苦しみを無くすにはどうすれば良いのか?」と言うことについて思いを巡らせ、たどり着いた理解とそれを心静かに受け入れた状態を、「悟りの境地」としているのだと思いますが、それはお釈迦様が直面していた一番大きな問題が、それだったと言うことでしょう。
ですから、我々凡人も小さな悟りは日々経験しているはずです。
しかし、我々の直面する問題は非常に小さなもので、それに対して理解し受け入れることがあったとしても、日常のほかの場面についての理解には繋がらないために、一瞬の心の平安の後にすぐさま混乱の中に叩き落されることになるのでしょう。
その理由は我々が問題として、思いを巡らせる対象が非常に個人的で些細なものであるために、もっと大きな問題に器ごと振り回されているからではないでしょうか?
確かに日々目の前にあることに専念することは一番大切なことです。
しかし、それは日々の雑事に追われ続けるのとは意味が違うのではないでしょうか?
悟りの境地とは、日々の雑事、問題の由来がどこにあるのかを理解し、時々刻々新たな業が生まれる様子を見つめて、その業を解消しながら、新たな業が生まれないように生きていこうとしている状態とも言えます。
それに対して、「覚醒」とは何でしょう?
「悟り」に対して、「覚醒」と言う言葉の印象はとてもダイナミックに感じます。
クンダリニーの覚醒、意識の覚醒のように使われるこの言葉の元々は「目覚める」と言うことですから、当然と言えば当然。
今まで眠っていたものが起きてきて活発に動き出すと言う意味ですから。
そして、この覚醒が起こって欲しいと望む人に共通する意識があります。
それは、自分の願望を叶えたい、という事です。
ここが「悟り」を志向する人との大きな違いとも言えます。
「悟り」を志向する人は願望成就よりも、心の平安を望みますが、「覚醒」を志向する人は、より動的な調和を望みます。
覚醒を望む人は「何かの理解」よりも「何かを変える力」を期待します。
ですから、新たな業を生産する可能性が非常に高い。
実際「覚醒した」と自称する人の中には、人の欲望を突っついて、誤った道を歩ませてしまう人が多い。
その理由は「覚醒」はしたのかもしれないですが、「理解」をしていないからです。
理解のない力は暴走するのです。
だから、しっかりとした下積み修行の無い人がクンダリニーの上昇をさせてしまったり、チャクラを全開させるとおかしなことになるのです。
本人は今までに無い知覚の中で生きているから、舞い上がってしまって人の言うことを聞く耳を持たなくなります。
そして、今まで感じ得なかったことを感じるようになり、それこそ全知全能の存在にでもなったかのような錯覚に陥ります。
しかし、心の修行が出来ていないために、実際には知覚したものを正しく理解できていない。
だから、新しい苦しみをばら撒くことにならざるを得ません。
そして、こういう人は本当の理解もしていないのに、大誤解のままに自分は悟ったからいろいろなことを感じ取れるのだと思うようになります。
そう言う人がレイキ業界にも沢山いるでしょう?
レイキ→エネルギーの覚醒→悟り、
この流れで、心の弱い精神世界志向の人たちに手招きをしている人たち。
この言葉を使う時点で、覚醒はしていたとしても、悟りは得ていないのがばればれです。
流れとしては、
部分的な悟り→(エネルギーの覚醒→)さらに包括的な悟り {カッコは飛ばすことも可能}
でないと、道を誤るのです。
つまり、部分的な悟りが、心のごみを取り除き、エネルギーの通り道を整理するのです。
その結果、エネルギーの覚醒が起こり、そこで知覚できることに対しての大きな理解が得られて、包括的な悟りが得られるのです。
私は基本的には部分的な悟りまででも良いと思っています。
それ以降は部分的な悟りを得た時点で、執着するものではないと言うことに結論付けられるでしょうから。
それでも、油断せずに修行を続けていれば自然とその後のことは起こってくるものでしょう?
と言うわけで、「覚醒」「悟り」をうたい文句にするサイトは要注意。
とっても、魅力的な言葉ですが、その筋道をきちんと説明できないサイト、お手軽に出来るものだとしているサイトは狂人製造サイトと言っても過言ではありません。
同様にチャネラー養成などと言うものもです。
皆さん大好きですけどね。
で、レイキをしていると本当に覚醒や悟りにたどり着くのか?
私なりの回答。
そこに繋がるレールは確かに在ります。
しかし、全てのレールがそこに繋がっているわけでは在りません。
何故ならレイキは道具だからです。
道具と言うのはどう言うことかと言うと、それ自体は使わなければ何の役にも立たないし、使うにしても使用者の意図に伴って働くだけのものだと言うことです。
例えて言うなら、自動車みたいなものです。
行き先は運転者が決めます。
どのルートを通るかも運転者が決めます。
そして、その道が正しいかどうかは初めての人には分かりません。
急いで行けば、事故にもあいますし、道にも迷いやすくなります。
レイキと言う道具も、エネルギーを使えるようになると言うだけのことです。
ですから、自分の心の制御が出来なければ、間違った理解をして思わぬところに迷い込むこともあります。
そして、迷い込んだことを自覚しなければどんどんおかしな方向に進んでしまうこともあります。
そんな人も多いです。
レイキだから迷わないのではありません。
レイキでも迷います。
それは、レイキのせいではありません。
道に迷ったからと言って車のせいにする人はいないでしょう?
全ては使う人の心の問題です。
悟りの方向に進んで行くには、その方向に向かって迷わず進まないといけないのです。
そのための、地図がレイキの五戒です。
レイキの五戒をきちんと理解し実践することで、更に理解が深まります。
そして、「部分的な悟り」にも至れることでしょう。
そうなれば、心の在り方も安定するのでエネルギーも安定します。
そして、必要があればエネルギー的な覚醒も起こることでしょう。
しかし、それは無理に起こすものではないのです。
レイキは道具です。
悟りへの道をよりスムーズに進むための道具でしかありません。
でも、その道具自体は、使用者の意思に従って働きます。
ですから、方向を間違えれば、悟りへの道からも外れた使い方もされてしまいます。
我々はそのことをしっかり自覚していないといけません。
そうでなければ、心は怠惰になり、方向を見失うからです。
私が重ね重ね、レイキは五戒を実践するための道具であり、五戒を実践できるならレイキは出来なくても人は幸せになれると主張するのは、このように理解をしているからです。
だから、五戒の解説をさせれば、そのレイキティーチャーがきちんと生徒を導けるかどうかは見極められるはずです。
まだまだ五戒の理解が出来ていないレイキヒーラーが多いのは嘆かわしいことです。
(終わり)