
はっきり言ってお経は般若心経と十句観音経しか知らない私がする話ではないですが、お風呂に入っていてふと出てきたことなのでお許しください。
昔、私は南無妙法蓮華経と唱える人と南無阿弥陀仏を唱える人の区別がつきませんでした。
そして、最近までは対象の違いはあっても、意識的には同じものだと思っていました。
しかし、南無妙法蓮華経は法華経の教えに帰依するものであり、南無阿弥陀仏は阿弥陀如来に帰依するものだから、当然開祖が信徒に期待した心の持ちようにも違いがあるはずなんですね。
それまで、私はどちらも短い呪文を唱えたら救われると言うインスタントな考えだと思っていました。
確かに今でも、それらの人を見ているとインスタントな救済を期待してやっている人が目に付きますが・・・。
しかし、それは個人の心の問題であって、教えの欠陥ではないのですね。
で、南無阿弥陀仏とは阿弥陀如来に帰依することにより、阿弥陀如来の思われるままにお任せします、ということなのではないでしょうか?
一方、南無妙法蓮華経とは法華経の教えに帰依する。
つまり、法華経の教えを実践して、この生を全うすると言うことなのではないでしょうか?
だから、どちらも何も考えず、ただ楽になりたいと唱えていても意味がありません。
どちらも、その対象に帰依をするのですから、エゴを出していては嘘になります。
でも、多くの方が自分はこうなりたいから(こうなってほしいから)、仏様たのんます~!と言います。
自分のエゴを残して帰依をするってどう言うこと?
そう言う意味では、仏の心を感じようとせずに南無阿弥陀仏と唱えていさえおればよいなどと言えば、S学会の格好の攻撃の対象になります。
(実際、私が大学生のころに私を勧誘してきた同級生はそのようなことを言っていました。
しかし、天台盛宗の家で弘法大師ファンの私には、そんなどんぐりの背比べみたいなことを言ってもなんともお粗末な折伏にしか映りませんでしたが・・・)
そして、法華経の教えを実践していく方がより幸せになれると言われてS学会員になります。
(私を折伏しようとしてきた人がもともとの浄土真宗信徒で自身の経験を私にそのように話していたんですが・・・)
確かに純粋に法華経の教えに帰依すれば幸せになれるでしょう。
(私は教えは知りませんが・・・)
南無妙法蓮華経は、法華経の教えの実践ですから、その教えを理解するための学習から始まります。
(学会員さんはよく勉強されてますよね~)
経文を解釈するだけでなく、実際の経験の中にある真理を見つけたり、教えに則った行動で成功体験を積んでいくことで学習は進みます。
それが伴わない、南無妙法蓮華経はやはり無意味です。
そしてもう一つ。
法華経そのものからその教えを感得するための努力が必要です。
通釈本や誰かが言った解釈ばかりをあてにしていては、仏の気持ちは分かりません。
知らず知らずに仏以外の人間の意図する方向に信仰を曲げられてしまいます。
これが教祖の代替わりで宗教が堕落する理由です。(私が学会に対して好意的でない理由もこれです)
話がそれましたが、ですから南無妙法蓮華経の実践は非常に能動的です。
それに対して、南無阿弥陀仏の実践は非常に依存的、受動的です。
しかし、どちらも仏と向かい合う道なのです。
どちらが正しいか?
どちらも方法としては正しいと思います。
ただ、条件があります。
仏の心と向かい合っていれば正しいのです。
自分だけの救済のために南無阿弥陀仏、エゴの達成のために南無妙法蓮華経ではどうしようもありません。
まかせきれる心をもてるかどうか。
信頼しきれる心をもてるかどうか。
それが信仰では第一になります。
そして、その境地に達した時には、困った時に南無阿弥陀仏、苦しい時に南無妙法蓮華経とは言わなくて良くなるはずです。
なぜなら、既にまかせきっているんですから。